資料NO. :  32
<資料名>
  第5回ちば人権展/なくそう差別・県民広場「上総・安房の集い」

 いつ:2003年11月14〜15日
  
どこで:君津市民文化ホール
 主催:社団法人千葉県人権啓発センター
制作者  :  T.M.
制作日  :   2003年11月26日
「劣化テラン戦争が地球核汚染を招く」というタツトルが書かれたポベター’ツラハの子どもたちの放射線被爆による病議の写真が16枚載せられています|
『地球の子ども新聞』(NO.77 2003年2・3月)
同ホールで市民ネットが開催している展示より

 11月14日〜15日,(社)千葉県人権啓発センターというところが主催の“ちば人権展”が行われ,2日目の講演がすばらしそうなので行ってみました。講演は3本立てで,第1部:「辛淑玉と暴力を考える…朝鮮問題を通して」,第2部:「君津市における軍需工場と朝鮮人強制連行について」,第3部:「関東大震災における自警団暴力事件について」。

 この人権展は,人権をテーマにした各種の展示と講演という内容で,千葉県では1999年から開催されているということで,今年は第5回目になるそうです。毎年県内を巡回して開催していて,本年は「上総・安房の集い」として行われたということです。
 講演の内容を,当日の資料をベースにしたメモを添付します。

                                                                                       
講演会 2日目第1部
「辛淑玉と暴力を考える…朝鮮問題を通して」

 講師:轄♂ネ舎 人材育成技術研究所所長 辛淑玉氏
演壇上の辛 淑玉さん| 講演用のテーブルの双に出て話をしています|議さくな方のようです| ≪辛淑玉さんのお話は,「最近ブチギレたことがありますが,それは何だと思いますか」という会場への問いかけから始まりました。≫

 横浜市西区がアザラシの「タマちゃん」を住民登録しました。東京では,14人に1人在日の子どもが生まれています。

 冗談でも言いから,私たちにも住民票を与えてほしい。
在日を含め外国籍住民は行政サービスから排除されているのです。
私の子どもの頃は小学校の入学案内も来ませんでした。義務教育は私たちには恩恵なのです。在日の子どもには,成人式のハガキもきません。だから,帰化(これ自体,差別的な言葉ですが)したいと考える人が少なくないのです。

 住民票はひとつのことですが,波及が大きいのです。滞在期間はたったの5ヶ月,しかも不法入国で,税金も払っていないのに,「タマちゃん」には住民票がもらえ,外国籍の住民は,税金を払い,日本人と同じように責務を負わされてるのに,行政から排除されているのです。私たちは,おもちゃの「住民票」すらもらえません。

 学校に行って講演をすることが多いですが,この3年間にずいぶん様子が変わりました。
女子学生の質問は,目の前の具体的な疑問を投げかけるものが多いのですが,男子学生の場合は,国家を背負っているのです。そこでよく受ける質問は「あなたは日本が好きですか」ということです。「好き」と答えれば,「好きなら文句を言うなよ」となり,「嫌い」と答えれば,「だったら出ていけよ」と返ってきます。

 「ではおたずねしますが,あなたの言う日本とは何ですか。政治ですか,経済ですか,文化ですか,環境ですか,生活ですか,教育ですか,制度ですか,芸術ですか……」と聞くと,今度は「日本人は好きですか」と返ってきます。
 
 そこで,「あなたの言う日本人のなかにはアイヌは入っていますか,ウチナンチュは入っていますか,日本国籍を取得した人は入っていますか,両親の国籍の違う人は入っていますか,ハンディキャップのある人は入っていますか……,最後にオンナは入ってますか」と聞き返すと,これで大体言葉に詰まってしまいます。
 
 言葉に窮した男子学生の次の質問は,「日本と韓国が戦争をしたら,どちらにつきますか」ときます。反対に「どっちにつくと思いますか」と聞くと,7割が韓国,2割が日本,1割がわからないと言います。「戦争になったら,一番先に殺されるのは私です」と答えると,ぽかーんとした顔をします。今,男達に国家を背負う意識が拡散しているのです。

 2000年4月石原都知事の「三国人」などの差別発言以来,これと闘ってきました。
市民からの実名を名乗った抗議が来るようになりました。「朝鮮人には出て行って欲しいのです」実名を名乗り職場すら隠すことなく,排除の言葉を口にしてくるのです。いま,嫌がらせをする人たちには,「日本のため」「国家のため」という確固たる「大義」があるのです。たががはずれたのを感じます。抗議のFAXが最高で1日に603件きました。

 一昨年の歴史教科書歪曲問題でもめていたさなか,広島市の路上で,チマチョゴリを着た朝鮮学校の女子生徒が乗用車に押し込まれて連れ去られるという事件を時事通信が配信しました。彼女は20分後に路上に放り出されましたが,その前にも同じ男たちに腹を蹴られていたのです。しかし,その記事はすぐに差し止められました。止めたのは女子生徒が通う朝鮮学校でした。その理由は,「最初に確信犯が事件を起こし,それが記事になると一気に模倣犯が広がり,もう止められない」というものでした。
 今は本気で踏ん張らないと,私自身を支えきれないと思います。

 2001年9月11日,ニューヨークの世界貿易センタービルに旅客機が突入しました。
 日本人は「映画みたい」という反応でしたが,私は「これが北朝鮮の犯行だったら,明日から街を歩けない」という思いでした。知人の在日の何人かに聞いても,私と同じでした。1時間ほどして,イスラム教過激派によるものだったという報道が流れ,その瞬間「よかった」と思いました。イスラム教徒の人達のことに思いを馳せることができるのに一日かかりました。

 「9・11」の後,空港の手続きが変わりました。
 チケットを買い,座席指定するところまでは一緒です。しかし,手荷物検査の時に「お名前をお読み下さい」と聞かれることが追加されました。私は「また始まった」と感じました。「名前を読むことで何が防犯できるのでしょうか」と私は聞かれるたびに尋ねました。それに対して彼らは「お名前をお読み下さい」とオーム返しに言ってきます。ある地方空港では,管理職が出てきて,「外国人かどうかを音で判断しているのです」と言いました。「日本人らしい発音でない者= 不審者」としてチェックしようということなのです。
 同じことを,かつて日本がやりました。関東大震災のとき,日本の軍隊と警察,自警団は,「15円50銭と言ってみろ」と言い,イントネーションが違う朝鮮人6000名以上を殺したのです。外国人は犯罪者予備軍だと見ているのです。
 
 2002年9月17日の拉致報道で,在日を取り巻く環境が一変しました。
 北朝鮮による拉致事件が判明してから,日本社会にうずまく恐怖心は,足もとの「在日」に向けられています。暴行・嫌がらせが頻発しています。加害者の3割が高校生・中学生で占めています。幼稚園・小学生までもがたたかれています。
 ある知人は,1週間家を出られなかったそうです。ある人は,顔が立てに引きつるチェックになってしまいました。ある人は周りが変な目で見ているといって脅えています。深刻な状況なのです。
 
 最近も,「韓国併合は朝鮮人が望んだもの」という石原都知事の暴言がありました。この発言に抗議する記者会見を行いました。250人〜300人の記者がきましたが,ほとんど記事に載りませんでした。在日の立場に立つことがいかに大変かという時代になりました。

 今,拉致被害者の子どもたちを「日本に帰せ」と,日本政府は北朝鮮に要求しています。
 拉致被害者の人達には,彼らの24年間の朝鮮での生活があったはずです。しかし,その子どもたちの視点に立って解決しようということにはなっていません。一方で,金大中氏の拉致事件の時,かつて韓国の朴正熙政権の工作員たちが,金大中氏を東京から拉致したとき,そのときの日本政府の対応は,領土内にいる人が連れ去られても何もしませんでした。

 国境を超えて被害者,加害者というのはいます。被害者の側に立って加害者を処罰し,被害者を救済するということが必要なのです。国境や民族を超えて何ができるのか,国家や民族という枠の中で語られることを不幸だと思っています。
 被害者が手を取り合って,加害者を許さないと言うことが大切です。今生きている日本人がしなきゃならないことは,国内の加害者を見つけ出して,罰することです。「あなた」の罪は,加害者を温存し,逃していることなのです。私も差別の社会を温存した「加害者」なのです。

【講師プロフィール】
東京生まれの在日コリアン3世。1985年人材育成会社轄♂ネ舎設立。
女性人材育成への本格的取り組みを経た後,「辛淑玉人材育成技術研究所(SPS)」を開講。
人材能力育成プログラム開発,育成環境開発を行う。
轄♂ネ舎(コウガシャ)代表人材育成技術研究所所長。人材育成コンサルタント。

【主要著書】
「辛淑玉のアングル」2003年7月(草土文化)
「鬼哭啾啾」2000年(解放出版社)

「強気を助け,弱気をくじく男たち!」2000年(講談社)
「在日コリアンの胸のうち」2000年(光文社)
「こんな日本大嫌い」1999年(青谷舎)
「女が会社で」1998年(マガジンハウス)
「韓国・北朝鮮・在日コリアン社会がわかる本」1998年(KKベストセラーズ)他
講演会2日目第2部
 課題別発表会
 「君津市における軍需工場と朝鮮人強制連行について」

 報告者:県立K高校 K.K氏
「系津市における罫需紘場と朝創人強制和行について」を発表するK‥K‥さん壇上には大きなベハリーンがあって‖演題が表示されています|  数年前,「イラン人が女性を暴行して殺した」という流言蜚語が内房線沿線を席巻しました。このことについて,授業で生徒に聞いてみました。ほとんどの生徒が「本当のことだと思った」と言いました。

 60年前にも流言蜚語が流されました。『特高月報』昭和18年11月号には,次のような記録があります。「本年4月9日,最近房州方面で朝鮮人が越後の毒消売りを殺して食ったという評判があり,警察官が私服で調査に行くと,奥に人間の股が吊してあって驚いたと流布す。」

 この年の2月から9月にかけて,朝鮮人が毒消し売りの女性を殺したという流言蜚語が,安房の方面からやがて県北にかけて伝わっていきました。
 この流言蜚語の背景には,その前年ごろより,千葉県内の工事場に,強制連行などで大勢の朝鮮人労働者が連れてこられていたことが考えられます。この君津地域もその1つでした。この地域の強制連行の調査が,91年から約10年間行われました。

八重原工場と強制連行
 1936(昭和11)年5月,木更津港に面した埋立地に,旧日本海軍航空隊が開設しました。軍都木更津の誕生です。対米戦争を想定した航空兵力の大拡張と東京防衛のため,海軍が全力をあげて建設を急いだものでした。

 1941(昭和16)年,海軍航空廠令の制定により,木更津航空隊のそばの敷地に,第二海軍航空廠が設置されました(巌根工場)。
 航空廠は航空隊に対して,航空兵器や材料の造修・保管・供給をおこなうことを役目とし,航空廠内には,飛行機部(飛行機の胴体を作る),発動機部(エンジンの造修),兵器部(計籍や爆弾を作る)の他,補給部・医務部・総務部が置かれました。日本最大の修理工場が造られていきました。

 対米戦争が始まると,飛行機の消耗も激しくなり,それまでの巌根工場だけでは手狭であるとして,航空廠の分工場の場所として当時の八重原村・周西村(現君津市街地)が選ぱれました。1942(昭和17)年4月より両村の土地の強制買い上げが始まり,10月より敷地約百fに及ぶ八重原分工場の建設が始められました。

 この時に,朝鮮の本土から強制連行され,八重原工事場に連れてこられ,強制労働させられた人々がいました。これについては,1973年君津町誌の後編に記述があります。厚生省の“朝鮮人労働者割当計画書”(S17年)という資料にも,300人動員すると記述があります。

 李東乙氏は,「在日の動員に失敗して朝鮮人を朝鮮から連れてきて徴用した」と,強制連行の事実を証言しています。

 金斎石氏は,歩いているところを呼び止められ連れてこられたと次のように証言しています。
 「釜山まで臨時列車で運ばれ,釜山から1万トンの鎌倉丸に乗せられました。その時の人数はよく分からないが,女性もいておそらく慰安婦にとられたと思います。行き先を知らされぬまま上陸した場所は横須賀でした。上陸後は,行き先が既に決められていたらしく,どのトラックに乗るのかを指定されました。勿論,私たちには,行き先を教えてはくれませんでした。携帯品は,持っていく暇もなかったために何もなく,ポケットに2〜3円が入っているだけでした。
 1942(昭和17)年10月31日のことで,徴用としては一番早かったのではないかと思います。八重原では,土方をやらされました。南子安の高いところの土を削ってトロッコで運んだり,道路の敷設などをしました。私たちが一番最初にここに連れてこられた朝鮮人で,当時,田んぼであったものを埋めならして鉄道を敷き,資材を汽車で運搬したんですね。こうした土方に1年半ほど従事させられました。」

 八重原工場の整地作業は,42年の10月より1年半ほど続き,その工事に200人余りの連行された朝鮮人が従事させられました。その人々のその後の行方は分かっていません。偶然八重原に残されることになった金東乙氏は,大部分の朝鮮人がサイパンに作っていた航空廠の建設のために連れていかれたと証言しています。しかし,その他の証言もなく資料も残っていません。
 強制連行で150数万人の人々が被害を受けました。在日の方々は,強制連行されてきた人々の子孫なのです。強制連行で行われたこととは,強制連行,強制労働,民族差別ということです。

秘密地下工場の建設》
 44(昭和19)年後半になると本土空襲はさけられない情勢となり,第二海軍航空廠の工場設備を守るため,分散疎開が始まり,佐貫の山を選んでトンネルを同年末より急いで掘り地下工場が作られていきました。この工事に従事したのも,強制連行で日本に連れて来られたり,その工事場から逃亡して各地の工事現場を転々としていた朝鮮の人々でした。現在分かっているもので38の飯場がありました。農家を借りたものが8ヶ所ありました。

 佐貫の工事現場で,どのくらいの朝鮮人が働いていたのか,その実数はまだつかまれていませんが,飯場に食料を配給した人の証言では,水増しした数との限定付きではありますが,1000人との数があげられました。

 昼夜兼行の突貫工事により掘られた地下工場のトンネルは,1本百数十メートルに及ぶトンネルだけでも40本発見されています。少なく見積っても全長九キロメートルのトンネルを,1年半程度の短期間で掘るためには,大量の朝鮮人労働者が動員され酷使されたと想像できます。落盤事故も起こりました。

 トンネルが掘られた箇所から整地作業が進められ,横穴に機械が運びこまれると,その部分から工場としての稼働が始まりました。45(昭和20)年2月頃からである。工場作業に動員されていった人々は,女学校の生徒達でした。

 空襲を避け,飛行機生産の保護と増産をはかるための地下工場ではありましたが,実際には作業能率は非常に低かったということです。その理由は,通路や作業場が狭く,資材の取り扱いがうまくいかず,適切な作業計画が実施できなかったこともありますが,最大の原因は湿気でした。天井から水滴がたれてくるので,床の両脇に溝を掘って流したのですが,湿気のために工作機械はすぐサビをきたし,また作業員が感電する危険もありました。また,湿気の多い空気は作業員の健康や士気にも悪影響を与えました。さらに,素掘りのトンネルに丸太や板で補強はしてあるものの,落盤への不安は常につきまとっていたのです。

 もう一つ看過できない強制連行に関する施設があります。六軒町(木更津市)と朝鮮人慰安婦です。六軒町とは慰安所で,航空隊,航空廠付属の慰安所だったのです。

《8・15以降の工場》

 ポツダム宣言受諾を伝える昭和天皇のラジオ放送を,工員や動員学徒は事務所や宿舎で聞きました。
 その時より,極秘文書をはじめトンネル内にあった図面などの書類,そして学徒の持っていた日記にいたるまで,すべてを焼く命令が出されました。また,工場内の機械類は米軍の調査に備えて,いったん土中に埋められたといいます。翌16日には,徴用工員や動員学徒は解除となって地下工場を去り,わずかな人数の下士官が残務整理のため残りました。

 トンネル掘りに動員されていた朝鮮の人々は解放されましたが,逆にその日の生活に困窮する状態となりました。終戦直後2万5千人の朝鮮人が県内にいましたが,「昭和20年・内鮮報告書類編冊・特別高等課」の資料によると,同年9月10日の段階でこの地下工場の飯場には,137人の朝鮮人労働者と84人の家族が残っており,母国に帰ることを希望しつつ生活していたと記録されています。
講演会2日目第3部
 課題別発表会
 「関東大震災における自警団暴力事件について」
   −福田村事件真相調査から見えてきたもの−

 報告者:社団法人千棄県人権啓発センター M.I氏
「関東大震災における自警団暴力事件について」を講演するm.i.さん|はじめに
 今から80年前,1923(大正12)年9月1日,関東地方をマグニチュード7.9の巨大地震が襲いました。関東大地震です。地震による被害と,その後に発生した火災などの大災害を併せて,「関東大震災」といわれ日本の歴史上最大級の災害となりました。東京・横浜では火災が発生して大災害をもたらしました。この時千葉県も内房から安房地方にかけて深刻な被害を受けました。

 毎年9月1日を「防災の日」として各地で防災対策が行われていますが,東京都知事の対応に見られるように防災対策に名を借りた治安対策になってしまっています。朝鮮人虐殺事件は,防災の日に話題にもなりません。
 今年は関東大震災から80年ということで,展示について動きがありました。東京都の「ザ・地震展」については,人災については1行もありませんでした。唯一評価できたのは,大宮の写真展でした。人の命の大切を写真で知るというものでした。

 関東大震災では,「天災」と同時に,同じく日本の歴史上でも特筆すべき「人災」が起こっていました。6600人以上といわれる朝鮮人や,多数の中国人,日本人などが関東一円を中心に虐殺されました。加害者は軍隊や警察そして,民衆によって組織された自警団でした。これらの虐殺事件の中心的な行動をした,「自警団暴力」とはどのようなものであったのかを考えてみましょう。

自警団の成立
 関東大震災の発生直後から,「朝鮮人が暴力行為をしている」「朝鮮人が井戸に毒を入れている」など「不逞朝鮮人暴動」情報,いわゆる流言蜚語が伝わり始めました。不安定な社会の中で,震災が起こり,デマが仕掛けられたのです。背景は,国家権力が進めてきた侵略政策から生まれた,他民族とりわけ朝鮮人に対するゆがんだ差別意識,更に異常なほどの郷土意識を支えた,排他的な排外意識が相乗して,根拠のない無責任なうわさを信じ,日本の中に瞬く間に広がっていき,大量虐殺へと進んでいったのです。そのような状況の中で,9月2日に東京市に戒厳令が布かれ,それが3日には東京全域と神奈川県に広がり,4日には埼玉県,千葉県へと広がっていきました。2日,埼玉県では,内務部長名で「不逞鮮人暴動に関する件」という通牒(公文書)が郡 町 村 長宛に出されました。

 「今回の震災に対し,東京に於て不逞鮮人の盲動有之,又其間過激思想を有する徒らに和し,以って彼等の目的を達せんとする趣及聞漸次其の毒手を振はんとするやの惧有之候に付ては,この際町村当局者は,在郷軍人分会消防隊青年団等と一致協力して,その警戒に任じ,一朝有事の場合には,速かに適当の方策を講ずる様至急相当御手配相成度,右其筋の来牒により,この段及移牒候也」。これは,「今度の震災で,社会主義者と不逞の朝鮮人が一緒になって,暴動や革命を企てている。町や村の責任者達は,在郷軍人や消防団や青年団と協力し,何かあった場合,できるだけ早く,適当な処置を執りなさい」ということで,権限を与えるということです。これと同じものが他の県でも出されていたはずです。

 これによって,在郷軍人会,青年団,消防組の3団体を中心に関東各県で自警団が続々と組織されていきました。その数は,東京1145,神奈川603,埼玉300,千葉366,茨城336,群馬469,栃木16(栃木県は組織形態が異なるため少数だが,実質は他県と変わらず)というものでした。自警団は,体制維持,自分たちの町村防衛の立場に立ち,排他的機能を果たしていき,特に朝鮮人を警戒し,集団で朝鮮人を襲撃していきました。検問をし,怪しいとなると片っ端から殺していったのです。
 朝鮮人に対する見方は,3・1独立運動などに見られるように,いつ反逆をして,抵抗してくるかも分からないという恐怖感があったのです。それと,蔑視感など様々な感情がありました。

福田村事件と自警団
 1923(大正12)年9月6日,関東大震災の混乱時に,旧福田村(現野田市),旧田中村(現柏市)の自警団は,香川県から来ていた売薬行商団を襲い,一行15人の内9人の命を奪いました。(事件発生地が旧福田村であったことから福田村事件といわれる)。なぜ9人もの尊い命が奪われたのか,福田村事件の真相調査から明らかになってきたものは,複合的な差別の問題です。上記の差別排外意識が,あってはならない事件を起こしたのである。

 福田村事件では朝鮮人誤認説,国家権力の犯罪などとする理由では済まされないものが明らかになってきているのです。
 また当時の政府発表による,千葉県における朝鮮人などの虐殺数は,@軍隊による虐殺25,A自警団および民衆による虐殺90,B朝鮮人と誤認して日本人を虐殺した例28,C軍隊より村民に配分して虐殺17となっています。
(注実際にはこの数を相当数上回っている。朝鮮人誤認としているが実は日本人と分かっていて殺害した例も多い)
 
自警団の成立パターン
 1 自然発生的組織型
 2 夜警団の変形型(犯罪対策で夜警団を立ち上げた)
 3 「保安組合」の拡大型(保安組合は,自警団の前身になるもので,1920年前後からつくられていった。つくることが奨励されていて,千葉県ではおよそ18万人が組織されていた。)
 4 官憲(内務省→県→郡→町村(あるいは警察)→各地域へ指令型)

自警団の構成
 ・在郷軍人会,青年団,消防組を中心に組織されていった。

自警団の意識
 ・流言蜚語に流されていった。
 ・お上のいうことだから正しい。
 ・お上のためにやらなければならない。
 ・朝鮮に対するゆがんだ意識を持っていた。

国家,民衆の責任
 ・9/2には,内務省から,全国に朝鮮人の取り締まりの指令が流されていった。デマは警察から流されていった。
 ・虐殺したのはまぎれもない民衆自身。
 ・福田村事件の場合:「朝鮮誤認説」がいわれているが違うと考える → 部落差別,民族差別,排他的な意識など複合的なものが背景にあった。

戦争への道
 ・1923年(関東大震災)〜1945年(敗戦)まで22年間の道 → 22年という期間は本当に短い。
 ・戦争を支えた国民意識〜自警団から様々な組織に発展していく。

歴史に学ぶ → 現代の差別排外主義の蔓延を考える
 ・現在,こわい状況である。


 参考資料はこちら:         

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掲載:2003/11/29